浄土宗 五劫山 法蔵院 阿弥陀寺 横須賀市津久井浜海岸を望む由緒ある名刹

由緒沿革

当寺は元久元年(西暦1204年 土御門天皇の御代 源実朝の頃)天台宗の耆宿 ※聖覚法印の高弟 明円上人により開創され、後、法然上人の教えを信奉して浄土宗に改められたと伝えられております。(史実不詳)
元 京都 総本山 知恩院の直末でしたが、貞享年中(1686年頃)鎌倉光明寺の末寺となったようです。由緒によりますと、弘治・永禄の頃(1556~58年)房総を掌握していた里見氏が勢力拡大のために、小田原 北条氏との抗争で、三浦侵略を繰返し、その戦場となり兵火のために、諸堂宇は灰燼に帰されました。

その際、里見氏は三浦城の攻略が出来ないまま、当寺の仏像、梵鐘等をもち去りましたが、途中海が荒れて仏像を海中に投げ捨てて逃げ帰りました。

この仏像は三浦 菊名の里に流れ着き,無事当寺に帰ることが出来。その縁で菊名の里に、現在も檀家数拾戸があります。そのお檀家の便利を計って、建立したのが永楽寺であると伝えられております。

北条氏は当寺の諸堂宇の焼失を嘆き学問所をここに移建して改築し九間半・七間半の本堂を建立しました。

嘉永年間(1847年)鎌倉光明寺の山門改築の際、旧山門を移築して建立したといわれる山門(間口七間 奥行き二間の楼門)がありました。

元 子院として山内に雲光院と真珠院が、末寺に、往生院・円乗院・永楽寺・霊川寺・長沢 浄慶寺などがありました。

関東大震災にて、総門と庫裏を残して全壊。本堂の古材を売却して、山門の古材にて大正12年に仮本堂を建立。その後昭和47年に本堂の再建、昭和55年庫裏、昭和60年客殿、昭和63年に総門が再建され現在に至っております。


総門について

元禄12年(1699年)総門が建立され、何度か再建されておりますが、龍の彫刻は創建当初のもので「荒れ狂う波間に龍を配し、その裏には梅と二羽の雉が彫られております」 

この龍は時化の夜に、海上を泳いで対岸の房州(千葉県)に渡るという伝説があり、そのため、龍の左眼には「目打ち」として五寸釘が打たれていると伝えられております。

一説に 左甚五郎(1634年亡)作との説もあります。

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